2007年11月27日

「空の向こうに風は吹くのじゃ」61

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第2章  「ペッパー」

第27話 「リアリティー」

リアリティーについて話そう。

そもそも「リアリティー」の持つ意味は、大いにして曖昧だ。
それは、どんな表現方法でも「なにか」を第3者に伝えるとき
必ず、自分の「主観」が入る。
例えばその「なにか」を活字にすると「意思」や「意図」が主張しだし
なんだか現実とは懸け離れた形に変化し 脚色される

それは活字でなくても同じことで
たとえば活字より若干ビジュアライズが容易な「漫画」でも
たとえば それは、動く映像として
もっとリアルにイマジネーションが膨らませやすい「映画」でも「テレビ番組」でも 
もしくは、ノンフィクションの「ドキュメンタリー番組」でも
そこに作り手の「主観」や「意思」「意図」が入れば
間違いなく本物の「リアリティー」は見えてこない。

ひとつの例を出そう
たとえば「ドラえもん」というキャラクターが「いる」

「ドラえもん」はご存じの通り猫型ロボットだが
そう言われなければ「猫」には見えないし
漫画の中で他の登場人物から「たぬき」「たぬき」と言われなければ
あまり「たぬき」にも見えない。

当たり前だが やはり「ドラえもん」にしか見えない。

しかし これもすべて作者の「主観」や「意思」もしくは「意図」によって僕らは情報操作されているのも 確かだ。

それはもし 登場人物の目(視点)からドラえもんの世界を見たとき
のび太やスネ夫 もしくはただの通行人からその世界を見たとき
そこに存在するドラえもんの姿は、もしかしたら
より 現実のタヌキに近く ロボット色が薄く どちらかというと
「友達」ではなく「ペット」的要素の方が強いかもしれない。
だからドラえもんが街の中を歩いても、自然に調和するのかもしれないし
そう考えるのはとても無難な事かもしれない

しかしそれでは色々と不都合な事が多いだろうし
もしドラえもんが自然に調和したキャラであれば
現在(いま)の様な国民的キャラクターにはなっていないだろう
これはキテレツ大百科の「ころすけ」にも同じ事がいえる。

NZの旅の最中に書き留めていた日記を参考に このブログを更新しているわけだが
最初の頃(ブログの前半)と比べてみても
僕自身の「主観」や「意思」「意図」によるデコレーションは
過剰なまでにエスカレートし出しており
最近の文脈はまるで純文学かぶれの様で 気持ち悪い

最初の頃(ブログの前半)は、僕の目とほぼ同じ高さに視点が位置していたが
最近はやや上の方から見下ろすようになってきた。
このままの勢いで 完全に僕から離れてしまうとこのブログは
日記の延長(よりリアリティーなもの)から懸け離れてしまい
どちらかという 小説的になってしまう可能性がある
そうすると他の登場人物にも感情移入しなければいけないので
もっと話が複雑(ややっこしく)になりそう・・・ 

NZの旅はまだまだ 続く・・加速の必要性が問われるな〜

























posted by たろー at 19:06| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | NZ日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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